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2009年2月某日、午後。
私にとって村は、
母方の祖父母の実家がある場所でした。
昭和40年代後半のことです。
村のバス通りからは網の目のように細い路地が伸び、
長い時間をかけて踏み固められた
路地の湿った黒い土の上には、
不揃いな敷石がでこぼこと並んでました。
体が小さくおっちょこちょいだった私は、
敷石の出っ張りに足を引っ掛け、
よく転んでましたっけ。
で、そういう細い路地はもちろんのこと、
太い通りのあちこちにも、
こんな感じの木造の家が、
まだいっぱい残ってたんです。
*
C県K市にあった新興の団地で、
両親と妹と4人で暮らしていた私にとって、
J村は一大アミューズメントパークでした。
休日、電車に乗って遊びに来るたびに、
祖母からお小遣いをもらい、
妹と一緒に近所の駄菓子屋へ走る、
J村銀座商店街のおもちゃ屋へ走る。
目当ての場所までの道すがら
よその家の庭に面した、
猫ション臭い路地を抜けるとき、
「とお~らせてくださあ~い!」
妹と2人、声をそろえて言うと、
座敷の奥の暗がりから、
「・・・はい、どーぞー」
と、くぐもった小さな声が聞こえてきたものです。
祖父母の家は古い文化住宅でした。
玄関脇に洋間が1つだけついた木造和式の平屋。
背の低い板垣で路地と隔てられた、
広い土の庭がありました。
庭の片隅には手動のポンプ式井戸があり、
当時すでにぼろぼろに汚かった木製の物置があり、
大きな柿の木が3本ありました。
夏にはそこで花火をします、縁側でスイカを食べます。
お風呂は祖父が薪で焚いてました。
庭先で祖父の薪割りにちょっかいを出したり、
一緒になって風呂釜の焚口に薪を放り込んだりするのも、
普段、2DKの間取りの明るい団地に
暮らしている小学生にとっては、
貴重な楽しみの1つでした・・・
あれから30年以上の時間が経ち。
おじいちゃんもおばあちゃんも。
あの懐かしい家も風景も。
ぜんぶこの村から消えてしまいました。
時にはこんなふうに、
1枚の写真をよすがにして、
思い出してみるのもいいものですね。
*
20090219
J村役場職員・S